御祭礼や祈願の際は、浅草神社の神主がその神社に出向き、神事を執り行います。
そのひとつひとつの神社に歴史があり、祈りの場として町の人々に大切に守られています。
江戸情緒が残り、活気溢れる浅草の街を散策しつつ、そこに静まるそれぞれの神社の雰囲気に触れて、浅草の新たな魅力を見つけてみませんか?
〜兼務社巡りのご案内〜
浅草神社は8つの神社を兼務しております。
御祭礼の日やご縁日以外は無人の神社となります。参拝は行えますが、夜間は門扉がしまっている神社のございますので、開扉時間にご注意ください。
兼務社に関するお問い合わせは浅草神社までお願いします。浅草神社03(3844)1575
浅草富士浅間神社
東京都台東区浅草5-3-2
開扉時間:終日解放
富士信仰が最も盛んであった江戸時代、富士山崇敬を目的とした「富士講」が結成され、全国各地に浅間神社の勧請が行われました。富士山山開きの6月1日(現在は7月1日)には、富士参りの出来ない人々が、各地元の浅間神社に参詣していたのです。そうした富士山遙拝所として浅草富士浅間神社が創建されました。 当初は、現蔵前の三好町に勧請・分祀(御神霊を頂くこと)され、その後幕府の命により昔は富士に似た森厳なる小丘であった現在地(浅草五丁目)に移されたとされています。
合力稲荷神社
東京都台東区浅草6-42-8
開扉時間:終日解放
例祭日:2月15日
初午祭:二の午
五穀豊穣 商売繁昌
社伝に、永禄年間(一五五八〜六九)に山谷村に住んでいた小作人らが郷中の鎮守として奉斎したのがはじまりと伝えられております。寛文三年(一六六三)、徳川四代将軍家綱の御乗馬、「荒波」が日光詣の折に千住宿にて死亡した事を受け、荒波馬頭として馬頭観音も合祀されました。
日本堤の土手下にあり、「土手のお稲荷さん」として親しまれております。
境内には、江戸時代、日本一の力持ちと称された三之宮卯之助の力石が発見されています。
袖摺稲荷神社
東京都台東区浅草5-48-9
開扉時間:終日解放
初午祭:一の午
五穀豊穣 疫病退散
良縁成就 学問上達
今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀乏しくならぬよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九郎(後の北条早雲)が小田原城に移った際に、その神体を城内へ遷座から開運稲荷と尊称されました。
小田原城落城に至り、この稲荷に信心あつかった小西半右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉して墨田の辺に下るべし」とお告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉りました。
のちに奇瑞あらたなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにしいて諸穀豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、奉拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖寿里稲荷」が神号となり、「袖摺稲荷」と変化しました。
感應稲荷神社
東京都台東区西浅草3-16-13
開扉時間:8時〜17時
例祭日:6月15日
五穀豊穣 商売繁昌
家内安全 諸願成就
古くから「感應稲荷」と号し、武蔵国豊島郡江戸郷芝崎(現在の千代田区大手町)に鎮座していましたが、天正十九年(一五九一)、文禄元年(一五九二)と二度の遷座を経て、明暦三年(一六五七)現在の場所に鎮座され、鎮守神として人びとの厚い信仰を集めています。震災や空襲により焼失するも氏子の篤い崇敬により、その都度修営されています。
八幡神社
東京都台東区西浅草2-14-15
開扉時間:6時〜18時
例祭日:5月18日
武運長久 国家鎮護
勝負必勝 交通安全
元禄十三年(一七〇〇)庚辰八月九日田島山快楽院誓願寺の敷地の鎮守として創建されました。大正末期まで東町会東北隅に所在しており、豊前の国宇佐八幡宮の御神霊分神を斯の地に御奉遷しました。明治六年(一八七三)一月に浅草神社社務兼勤の命を蒙ります。昭和二十年三月九日に夜戦火に依り灰燼と帰すも地域住民有志の浄財寄進にて、昭和二十四年二月に再建され、更に昭和四十七年五月に現在の社殿、社務所が完成しました。
日枝神社
東京都台東区西浅草3-8-1
開扉時間:夜間閉扉
例祭日:6月15日
社運隆昌 商売繁昌
厄除け 良縁
室町時代には、現在の丸の内常盤橋付近にあった天台宗東光院の境内に祀られていたといわれ、近江の日吉大社の御分霊を勧請したものです。その後、慶長年間(一五九六~六一四)に徳川家康が江戸城を増築した際、東光院とともに当社も日本橋小伝馬町に移りました。
明暦三年(一六五七年)の江戸の大火に罹災、その後再興されて現在の地に祀られております。
昭和三一年に鳥居を建立し、昭和四三年に破損が著しかった木造の社殿を鉄筋コンクリート造りに改修し、現在の姿となりました。
境内にある地元の芝崎西町会作成の“あおぞら昔写真館”の展示も味わい深く、賑わいを見せています。
黒船稲荷神社
東京都台東区寿4-3-1
開扉時間:終日解放
例祭日:5月18日
歳旦祭:1月中旬
節分祭:2月初旬
五穀豊穣 商売繁昌
家内安全 諸願成就
元は「黒船三社稲荷社」と呼ばれ、天慶三年(九四〇)に、平貞盛が藤原秀郷と協力して将門の本拠地を攻めた後、黒船稲荷大明神を創建しました。藤原秀郷は財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見て、当社を勧請したといわれています。江戸時代には散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀し、「黒船三社稲荷大明神」と氏子から呼ばれるようになりました。享保十七年(一七三二)には、浅草通り黒船町河岸の南西に祀られていましたが、同年三月の大火で類焼し、その後、替地を賜り現在の場所に鎮座されたとされています。
現在の鳥居は、老朽化の為、平成三十年に再建されました。
寶珠稲荷神社
東京都台東区清川2-15-1
開扉時間:夜間閉扉
初午祭:2月11日
火伏 商売繁昌
家内安全 諸願成就
社蔵の古文書により、天正十七年(一五八九)には浅草町の鎮守として祀られていたとされています。
万治元年(一六五八)、浅草知東院(現在の伝法院)の駒形広小路小あけ屋敷跡にあった浅草町は、幕府の御用地となり、町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられました。しかし移転先が生活するのに困難な土地であったため天和二年(一六八二)に名主と住民が、町の移転を連署で奉行所に請願し、そこで替地となったのが現在の鎮座地です。
昭和二十年大東亜戦争末期の東京大空襲の際、神社の灼なる御神徳の御加護と氏子の必死の消火活動により、境内地の全建物は焼失を免れました。
奥の院には京都伏見稲荷大社より勧請した「白狐稲荷」をお祀りしております。
初午祭では地元町会が中心となり小さな子どもも集まり賑わいます。
被官稲荷神社 (末社)
東京都台東区浅草2-3-1(浅草神社境内)
開扉時間:終日解放
例大祭:3月18日
初午祭:一の午
五穀豊穣 福徳円満
立身出世 芸能上達
安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現在の京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは「官」を「被(こうむ)る」ということから、就職・出世と解せば良いでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。