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2018.03.15

浅草神社宮司姓「土師(はじ)」姓への改姓 趣意書

平成29年10月18日
浅草神社総代会
浅草神社宮司土師姓改姓委員会

「推古天皇36年(西暦628)3月18日早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦で漁労中、投網の中に一体の仏像を見付け、これを土師中知(はじのなかとも)が拝し聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依した」
これは『浅草寺縁起』に記された浅草寺草創のお話しです。
後に、土師中知は「土師真中知命(はじのまつちのみこと)」として、「檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)」「檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)」と共に、浅草寺本堂の傍らに「三社大権現(さんじゃだいごんげん)」として祀られ、また、その子孫は「専堂坊(せんどうぼう)」「斎頭坊(さいとうぼう)」「常音坊(じょうおんぼう)」の名で「三譜代(さんふだい)」と称され、僧侶として代々浅草寺に仕えられました。
「専堂坊」を称した土師家は「三社権現社(現在の浅草神社)」の社僧(神社に仕える僧侶)としても仕えてきましたが、明治元年に政府より発令された神仏分離令において  社名が「三社明神社」に改められ、専堂坊職であった「土師忠英(土師五十九世専堂坊)」は同社に移り祀官(現在の宮司)となり名を「土師長夷(ながきよ)」に改め、後にさらに「土師内膳(ないぜん)」と改名し神職として奉仕されました。
一方、浅草寺の専堂坊職は「土師家」の血族である「浅井云東」に六十世として引き継がれ、その後も浅草寺に仕えられ六十二世まで継承されてきました。
土師内膳の長男「金之焏(きんのじょう)」は事情により「土師家」の名跡を継ぐことを一度拒みますが、青年期に師事されていた国学者の姓より頂戴したと云われる「矢野」に姓を改め、祀官の職に就かれています。この「矢野」姓がその嫡子である「矢野泰道(やすみち)(土師六十一世)」に、そして現在の浅草神社宮司「矢野泰良(やすら)(土師六十二世)」に受け継がれ今日に至っておりますが、前述の経緯を踏まえると、本来であれば同社宮司として「土師」姓を継がれるべきでもあります。

 さて、「土師」という姓の由来ですが、その先祖は「野見宿禰(のみのすくね)」であり、「當麻蹶速(たいまのけはや)」との相撲での勝負に勝ち、現在でも相撲の神様として祀られています。その野見宿禰は、時の皇后薨去(こうきょ)の際にそれまで慣習となっていた殉死を取り止め、代わりに「埴輪」を作り供えることに改めました。その功績により「土師」姓を与えられ、皇室の葬喪儀礼に携わる役に就きます。
そしてこの埴輪による儀礼を広めるべく、その子孫が日本各地に散らばり、その内の一人が浅草の地に住み着いたと考えられています。浅草には良質な粘土が採れた事から 今戸焼きが発祥していますし、皇室の葬儀を仕切った一族だからこそ、仏教伝来わずか百年足らずの当時は僻地であった浅草においても、聖観世音菩薩の尊像を伺い知ることができたのでしょう。
野見宿禰の子孫には菅原道真公も輩出され、太宰府天満宮には野見宿禰の碑が建立されており、また大阪府藤井寺市の道明寺天満宮境内には土師氏の祖先を氏神とする「土師社(はじしゃ)」が祀られています。
「三社権現社」の社僧から始まり「三社明神社」の祀官を経た「浅草神社」の宮司の姓は「土師」が本来であり、これ程の我が国の歴史と文化を背負っていることは、我々浅草の氏子にとっても誇りです。そして連綿と続く「土師」の系統を以て、観音様と三社様の御縁や御由緒、更には浅草草創の歴史的経緯を、氏子はじめ浅草内外に向けて発信し、地域社会の更なる発展・活性化に繋げていくべきであります。
「土師」から「矢野」の姓を継がれている現宮司も、我々総代はじめ氏子代表者の要望を受け、「土師」姓への改姓を決意されました。
ついては、ご本人のご決意と氏子の総意を以て、今後は「浅草神社 宮司 土師(はじ)泰良(やすら)」として神明奉仕に更にご尽力頂きたく存じます。
本改姓の趣旨を浅草の街をはじめ世間に広く知らしめるべく、またこの慶事を記念して、平成30年3月18日に「浅草神社三柱の石碑」を同社内に建立する運びとなりました。
氏子・崇敬者をはじめご関係の皆様には、上記の経緯をご賢察賜りまして、ご理解・ご協力の程をお願い申し上げる次第でございます。

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